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まじめー僕の黒歴史

喜びを感じる時が減ったと感じている。楽しいことも無いことも無いのだが、はたかも、楽しんではいけない、と思っている時がある。なぜか。仕事による影響が大きい。仕事の中で、苦労をしなくてはいけない、と言う考え方が主流となっており、楽しんでいるなんておかしい、なんて雰囲気すら感じる。

こういった場所に長くいれば、楽しんではいけない、と言う考え方が体にしみわたってくる。休日すら、何か、まじめに生きよう、なんて思っているのかもしれない。そんなわけない、と思いたいが、残念ながら現実は違うようだ。

まじめに生きても面白いことはないのではないか、と感じている。まじめであって、周りの楽しそうな人たちがいれば、人生で負けたような感じを受けることがある。そう思うと、まじめが正しい、と言う感じ方はあまりいいことではないと思う。反面、まじめじゃないことによる、損も膨大だと思っている僕の存在がいる。ちょっとのミスでさんざん指摘をされて来れば、そうなってしまってもしょうがない。

まじめでありながら、喜べる、と言うことだってできるはず。まじめでなければいけない、という周囲の言い方が、僕を硬直させ、喜べない状態を作っているんだろうと思う。とても影響を受けやすい僕がいる。

思えば、小学生の頃、僕はまじめだったけど、人生も謳歌していた。ある程度の問題はもちろんあったけど、それでも、楽しいものの方へ僕は進み。周囲からはまじめだと言われていながら、毎日誰か友達と遊んでいた。そういう子供の頃の感覚を忘れさせてしまったのは、受験勉強だ。中学の時、遊ぶことを止められた。それから、遊ぶこと、密教のように隠れて行うこととなってしまった。もちろん、受験勉強だけの出来事だったのだけど、これをきっかけに、僕の遊びに対する考え方は「人生そのもの」から「余暇」に変わった。

まじめだけど、遊ぶ時は遊ぶ。小学生の時はよくできていた。今はそれを忘れてしまったかのような人生。過去出来たことだ、きっとまたできるようになる、という気持ちはありながら、遠くの話のように感じている、僕の心に驚かされる。

浪費する時間ー僕の黒歴史

一人、静寂を大切にしたい、と思うことがある。こんな時間、欲しくない時は膨大にあるのだけど、欲しい時になかなか持てない。仕事をしていない頃は、忙しさに憧れたりもしていたのだけど、忙しい時は、暇な時間が沢山ほしいと思ったりもする。本当に自分勝手だといつも思う。
一人の時間を有意義に過ごすことが、人生における最大の命題だと思っている。本を読む、映画を見ることで、暇つぶし、勉強ができるだけでなく、それらをしていない時に寂しさを感じずに過ごせることもまた、有意義な過ごし方だと思う。
そんな大切な時間、僕は遊んでしまっていることが多い。遊びたくないとしても、あとでやればいいや、と言う気持ちが高鳴り、結局やるべきことを後回しにしてしまうことが多々ある。こういうことを無駄な時間と理解していながら、止められない弱い自分がいて、がっかりする毎日だ。
僕は自分の弱さを理解しつつある。何かに中毒があるわけではないのだけど、中毒症状に近いものを感じることもままある。そういったことを感じている時、僕の理性は崩壊し、その中毒の方向に頭が向く。それしか考えられなくなる。やりたいことをやっている時も、もう少しもう少し、と長々とやり、最後に飽きて止めるのだけど、そこまでくるとやり疲れてしまい、やりたいことをやりたくてもエネルギーがない、という事態となる。
なんて無駄なのだろうと思うが、なかなか変えられない、残念な自分の存在を理解している。変えようとしても辛いだけなのだろう、と言うこともわかりつつある。
少しずつ自分を変える時、頭の中で理解する、と言うプロセスがなかなか進まない。論理的、感情的という2つの側面で進めて行かないと、本当の意味で変わることはできない。そういう意味では、日記を書くことは大切だと思う。日記で感情をしたためる。その中で論理的な矛盾点も解決できる。また、毎日書く中で、自分の小さい変化も気づくことができる。変わったという事実(認識)が、次の変化を生み出す、、、という良いループに入る。
日記を書いた方が良い、ではない。書いた瞬間燃してもいいから、皆が書くべきだ、と僕は考えている。そうしている中で、徐々に自分が理想とする方向へ変われるのではないか、と感じている。

転職ー僕の黒歴史

漠然と転職を考えている。やりたい仕事ではあるのだが、何か、間違っている、と思うことが多いのだ。ほとんど人間的な問題。人間的におかしいと言うつもりはないが、なんだか違うんじゃないか?と思うことが多く、これ以上働くとおかしくなる、という切迫感を感じる時すらある。

ただ、転職について思っていることは、「どこも大差ない」ということ。人間なんて、大なり小なりおかしいので、新しい場所であってもおかしいと思うことはまた出てくるんだろうと感じている。このような考え方をしていくと、転職しても変わらない=「逃げ場がない」という話になり、精神的に辛いこととなってしまう。状況を打破したい、変えることもできる、でも、変えても別の問題がおきるだけ、それなら変える意味ある?となってしまっている。

こういう考えの中では満足に転職活動なんてできないだろうと思う。ある意味悟ってしまっていて、絶望の淵かのような状態だ。どうしたらいいのか?と聞いてもしょうがない。多くの最近転職をした人の話を聞いても、良くなった人もいれば、大差がない人もやっぱり多く、なんだか、転職する意味があったのか?と思ってしまう。

せめて、「逃げ場がない」から「逃げ場がある」に変えることが大切だ。「逃げ場」さえあれば、僕は救われるから。何かこの状況を打破する手はないのか?と考えているが、今のところ、有効な手段がない。

僕はいったいどうなってしまうのか?今の状況を顧みて、僕について思う。

結局は将来になってみないとわからない。今は、精神をもっと柔軟なものに変えて、少しでも対処できるようにやっていくしかないのだろう、と思う。

夢があるかー僕の黒歴史

生き急いでいる僕を頻繁に感じる。今のままではいけない、なんとかしよう、と考えるのだけど、焦っていて視界は不良。何も見つけることはできない。

特に、30歳を超えた、ということが大きく作用していると思う。なんだか余裕がなくなった。そして、制約が勝手に作られ、息苦しさが増している。まだ成功できていない、という現実と、成功をしたい、という思いが焦燥感を生み出していると思う。

一芸を秀でた何かに惹かれるが、現実はそこまでの努力怠っている。今を楽しもうとして結局、進んでいない、ということが度々起こっている。それほど、気を紛らわすものが多いとも言えるが、意気込みと実際にやることとのギャップが驚くほど大きい。

僕は何をしたいのか?目標はどこで今どこを歩いているのか?と頻繁に思う。迷子になって抜け出せない、というよりも、そもそもどこを歩いていたかすらも忘れてしまったような、認知症感がある。記憶自体が定かではない。

思い返すと、そもそも行く宛がなかったことに気づく。どこに向かうでもなく生きてきた。ただ、なんとなくやりたいことをつまみながらここまできた。そのため、ここがわからなくても仕方がない。もともと知らない方へ向かっていたのに、今の場所を知っているはずがないのだ。

そう言って、目標があるかといえばなく、結局のところ、進むべき道がわからない、という状態に落ち着く。一歩も進まない現実。会社に使えるという自立的ではない人生。

何を望むかは僕の自由だが、少なくとも望まない道を行きたくはない。

一人の時間ー僕の黒歴史

電車に揺られながら、考えている。この時間は本当にかけがえないものだと、日々感じている。例え、これが出勤途中であったとしても、この時間はかけがえのない。何と言っても邪魔が入りにくいことがいい。家にいては、何かと囚われてしまいがちだが、この瞬間は基本的には邪魔なものはない。

一人の時間は大切だ。人によっては、この時間に映画とか見たりするのかもしれないが、僕はもっぱら物書きをしている。スマートフォンはキーボードよりも書きにくいが、ずっと集中して書けるような気がする。

集中している時間はとても貴重だ。この時間さえ使えれば、なんでもできるような気がする。色々と嫌なことがあると感じるのも、人がいるからである場合が圧倒的に多い。その時間が無駄とは言わないが、もっと一人の時間がほしいという欲望を感じている。

これは、馬鹿な欲望かもしれない。人と交わることは、これもかけがえのないことだから。でも、それでも、一人でいるときがほしいと望むのは、贅沢なことだ。

むしろ、人といれるけど、あえて一人を望む、と言う事に何かすごい世界があると思う。人と入れると言う安心感を一人でいても維持できるような、そういった感覚がある、ということなのだろう。

寂しさのない一人を過ごせるなら、それで人生は勝ったものなのではないか、と思った。人は寂しがる生き物だ。何かと、優しさ、優しさがないとしても人の存在を感じたいと願っている。そして、最後には死が待っている。死ぬとき、平然といれる、あっさりと受け入れるには、まず孤独の寂しさの克服が必要に思う。

まだまだそこまでの境地ではないが、書き物をしている中で、徐々に気づきつつある。

お金ー僕の黒歴史

僕がやらなければならないことについて、とても不満感を溜めこんでいる。皆がやらなければいけない、と言っているものに対して、強烈な反感を感じる。意味がないのではないのではないか?とすら思っている。

人間社会で必要なことの中で、お金、の比重があまりにも高くなってしまっている。お金を手に入れればなんとかなる、と思っている人が大勢いると簡単に想像できる。

実際、お金がなければ不便だ。というか、暮らすことすらできない。家はなく、食べ物も手に入らない。趣味ができなくて、とか、老後の心配以前に、人の暮らしでは、お金があることが前提として形作られている。

そんなお金の価値が、お金に対しての執着や制約を生み出している。お金がない生活を皆望まなくなる。今、平和に生きられればいいや、なんて絶対に言えなくなる。それで将来の生活がおぼつかなくなるならば誰も望まない。

気づけば、お金以外持っていなかった、と気づくことがたまにある。お金は多少なりともある。でも、それで一生生きられるだけあるわけではなく、働くしかない。一生生きられるお金は絶対に溜まらないから、働き続けるしかない。そう言い聞かせている僕を感じる。そうして、人生の価値を作るためにお金が求められる。人生の終わりに必ずお金が残るよう。

働くことに文句を言いたくもなる。お金のために働いている、としか言えない場面が多々ある。これをしなくてはいけないなら、お金なんていらない、と言いたいけど避けられない。

お金は制約だ。お金を求めるから、新しいことに踏み出せないことがどれだけあるか。潤沢なお金ではない、お金がなくても良い、という社会観が社会にあれば、どれだけ新しいことが生み出され、もっといい社会になるか、わからない。

ただやりたいから、やる、という単純な欲望は馬鹿扱いされてしまいかねない社会。そんな社会で生き続けたいと思わない。

安らげる場所ー僕の黒歴史

やすらぎの場所を求めている僕を発見した。そして、安らぎの場所はいまここである、という事実にも気づき始めている。
毎日に忙殺されている。何をやるにもいそがしい、と言う言葉となり、精神的には足元がおぼつかない。ふらふらのなか、必死に歩いている感じ。本当に頑張って、頑張って、毎日を乗り切っている。そして、どこかに安らげる場所はないか、探し求めている。
でも、どこにもないよう感じていた。あたりを見回しても、僕と同様にいそがしいといって頑張っている人ばかり。何かにがんばったり、あるいは人生や置かれた立場にうんざりしたり。いずれにしても、安らぎの場所にいる人はいない。
ふと思った。そんなやすらぎの場所は求められるものではないのではないか?世界の見方が違うから、発見できないものではないか?
ようは、今生きているこの瞬間ほど、安全を感じられる場所はない、ということ。精神的な本を読めばよく書かれている表現ではある。しかし、理解ができなかった。安全と感じられなかった。常に、慌ただしさを感じていた。
しかし、改まった気持ちで世界を見ると、徐々に客観的に見えてくる。いそがしい情景を見ながら、でも平和なのではないか?と感じてくる。僕を攻撃してくる人もいる。でも殺そうと狙う人はいなかったりする。そんな事実に気づくと、危なくない世界が見えてくる。
そう思うと、なんで僕は安らぎの場所を求めているのかわからなくなる瞬間があった。今こここそ、やすらげるといいたい。安らげるはずだ。頭が感じてきたことと現実のギャップは大きい。
ここまで書いてきたが、僕がそんなに成長したかと言えば、それは違う。あくまで、そんな禅の境地のような世界に入ってもおらず、垣間見たのみ。僕自身の精神的な鍛練を続けて、どこでも安心して僕なりに行動ができる、そんな風になりたい。